グイノ神父の説教   C 年




C 年 聖週間 

復活節から

キリストの聖体の祭日まで





聖木曜日
復活の主日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天の祭日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日

                     聖木曜日     C年     201041

 
   ヨハネ福音書 131節―15

    今日、私たちは主イエスの最後の晩餐を記念します。 この祝いの食卓は既に、裏切りの脅威にさらされています。 「誰かが私を裏切ろうとしている。」とイエスは言われます。 私たちの贖いの為に、神が命のシンボルとして私たちに与えられたパンと葡萄酒を分かち合うために、私たちはここでキリストを囲んでいます。 丁度、弟子たちがしたように・・・ しかしながら、聖ヨハネは主の晩餐について一言も言わず、むしろ、イエスが弟子たちの足を洗われた事を私たちに語ろうとします。

    ユダヤ人にとって足を洗うと言うことは、歓迎と歓待の受け入れを表す動作です。 普通は、客が家に入ると、一人の召使が客の足に水を注ぎます。 ところが、イエスは(しもべ)の仕事の場所を取り、且つ、食事が終わってから、この習慣を実行に移します。 さらに最悪で、ペトロにとって躓きとなったことは、イエスが跪いて、自分の弟子たちより身を低くした事です。

    聖ヨハネがわざと、この出来事のシーンを物語るのは、キリストの体が、ただ単に、晩餐のときのパンと葡萄酒ではないことを私たちに理解させたいからです。 確かにキリストの体は、また弟子たちの体でもあります。 まず私たちがキリストとその御父とに一致してとどまるために、イエスは聖体の秘跡を通して、ご自分の御体と御血、即ち、ご自分の生命を捧げます。 次に、洗足を通して、イエスはご自分の体となった弟子たちの世話をします。 つまり、聖体を通してキリストは私たちと一致します。

   洗足はキリストの御託身の神秘を、具体的に説明しています。  実際に、私たちの肉を取って、人間になったキリストは、人間としての命を、私たちと完全に分かち合いました。 そこで晩餐のときに、弟子たちはキリストの御体と御血を拝領する事で、実際にキリストの体となりました。  イエスは一人ひとりの弟子のうちに、本当に現存しています。 このように、キリストの御託身の延長が、はっきりと示されています。 即ちキリストの死後、御自分の神秘的な体となる人々を生かすために、イエスは、晩餐の時にも、一つ一つのミサの時にも、ご自分の体を捧げます。 私たちはこのとんでもない神秘の所持者、ポーターです。 この神秘を観想しつくし、納得し終わることは決してありません。

    御託身の故に、キリストの体は聖変化されたパンであると同時に、隣人の体でもあります。  キリストの体を頂くことは、隣人の世話をしなければならない義務を受け取る事です。 兄弟である人々に気を配ることは、キリストを大切にすることでもあります。 「これはあなた方に渡される私の体である。 これを記念として行ないなさい。」(ルカ2219節)とキリストが言う時、また、「私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示した。」(ヨハネ1315節)とキリストが言う時、イエスはご自分のうちに留まるように、また隣人を通してキリストに仕えるようにと、私たちを招いています。

     キリストの体の印として聖ヨハネはわざと洗足を活用しました。 この同じ聖ヨハネは同じ福音に次のように書きました。 「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」と。(ヨハネ114節) 私たちが日常の振る舞いにおいて、このキリストの御託身の神秘を生きるように、聖体の秘跡と隣人への愛が大きな助けになりますように!  アーメン。



                 復活の主日      C年      201044

   使徒言行録 103443節  コロサイの信徒への手紙 314節  ヨハネ2019

    キリスト者とは、ただ単に神を信じる者でもなければ正直な人生を送る者でもありません。 キリスト者とは、日毎に主の復活を生き、祝う者です。 キリスト者とは、十字架上で死んだイエスが復活されたことを信じ、宣言し、教会でその出来事を記念し祝う者です。 この信仰宣言から次の二つの問題が生まれ、それに答えなければなりません。 つまり、その出来事は本当ですか? ということと、それで何が変わりましたか?ということです。

    復活の出来事は本当の事です。 なぜなら、すべての宗教の中で、キリスト教だけが、ずっと迫害されながら、根絶出来ない宗教であるからです。 キリスト教がはじまって今に至るまで、世界中のあらゆる所で、あらゆる状況であらゆる年齢の人々が、この主の復活を証するために殉教者たちの群れに加わっています。 聖パウロ自身、最初のキリスト者の迫害者でしたが、ローマ帝国の西方の国々を駆け巡り、「キリストは生きておられ、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(Tコリント158節参照)と述べています。

    キリストの復活によってすべてが変わりました。 キリスト者と殉教者の証しは、キリスト者が自分自身に生きるのではなく、自分たちのために死んで復活されたキリストのために生きるのだという事を示しています。 飲んだり、食べたり、眠ったりする必要性を超えて、自分自身の中に光り輝く信仰、絶対的な信頼、希望に溢れた喜びを持つことが肝要です。 命は神からの賜物です。 私たちはこの賜物を神ご自身と共に、毎日そして永遠に、生きるように呼ばれています。 イエスは道、真理、命です。(ヨハネ146節) イエスの命が私たちのうちに「豊かにあふれるよう」(ヨハネ1010節参照)に、イエスは自分自身を死に渡されました。

    婦人たちがこの良いメッセージを宣言する第一番目の者となったのは、全く正しい事です。 受難の物語は、もっぱら男の人達によって犯された残酷で血塗られた歴史を詳しく述べています。 かえって婦人たちについて言えば、彼女たちは平和と喜びと希望のメッセージを宣言しています。 「イエスは生きておられる。 彼は本当に復活しました!」と。 8日目の朝早く、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアはイエスの遺体に最後の敬愛を表したいと香料と香油をもって急いで墓へ行きました。 しかし墓は空でした。 空の墓の前で当惑しましたが,彼女たちは雅歌の花嫁の言葉を成就しました。 その言葉は「夜、わたしは私の恋い慕う人を捜しました。 私は彼を捜しました。 しかしあの人は見つかりません!」(雅歌3章参照) しかし太陽が昇るとき、一つの声が彼女たちに告げます。「何故生きておられる方を死者の中に捜すのか? あの方はここにはおられない。 復活なさったのだ。」と。 復活されたイエスに出会った後、これらの3人の婦人は,雅歌の花嫁のように、「恋い慕う人が見つかりました。 つかまえました。 もう離しません。」(雅歌34節)と言明する事ができます。

    この朝以来、イエスはご自分の復活によって私たちにその新しい命を分け与えてくださいます。 「兄弟達、あなた方はキリストと共に復活しました。」と聖パウロは私たちに言います。 「死者のうちから復活して、キリストはもはや死ぬ事がありません。 死は彼に対して何も出来ません・・・あなた方もまた同じです。あなた方は罪に死に、イエス・キリストにおいて神に生きるものです。」と。 イエスがご自分の弟子たちに姿を現された時、彼らは直ぐにイエスだと分かりませんでした。 イエスは同じイエスですが、しかしまた全く違った方でした。 この新しい生き方をどう説明するか私たちは知りませんが、私たちがキリストとともに既に死んで復活したので、確かに、その命を生きるのです。 私たちもまた、同じ者であると同時に、違った者です。 このことは私たちの信徒としての生活の中で、すべてを変えます。 「生きているのはもはや私ではありません。 キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ220節) イエスは生きておられます。 私たちは既に復活しました。 キリストの復活の出来事は、恐ろしい迫害を通して、キリスト者の次々と続く世代によって私たちに伝えられました。 今日、このリレーを引き継いでいくのは私たちです。 私たちの生き方によって、すべての人に私たちが信じている事、私たちが生きようとしている事を告げ、知らせましょう。 キリストは復活しました! アーメン。



                       復活節第2主日     C年   2010411

   使徒言行録 51216節  黙示録1914節、31719節  ヨハネ201931

    使徒たちは恐れていたので、戸に鍵をかけていました。 私たち一人ひとりは神から自分を守るために、鍵で閉められた秘密の庭を持っています。 世の始まりから、恐れは人類に伴っています。 このように、アダムは自分の罪の後、恐れを認めるようになって、「あなたの足音が園のなかで聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。」と言います。  それは神が誰かに呼びかけられるとき、最初の言葉が、しばしば「恐れる事はありません」という言葉であることから分かります。 聖書では信頼へのこの呼びかけが366回繰り返されています。 これは1年の間、毎日の激励と勧告です!  今日の福音では13節に亘って、「恐れないで! あなた方に平和があるように。」と恐れに対する解毒剤を3回繰り返して与えられています。

    どうして平和の恵があるのでしょうか? 長年に亘る迫害が、この福音の執筆に先立っています。 キリスト者たちは恐怖の中で生きていました。 離脱、背反する者は多いでした。 この状況の中で、平和の恵は、安心を与える復活されたイエスが、弟子たちのそばにいたと言う事を思い出させます。 しかしながら、この弟子たちは、受難のとき、臆病にもイエスを捨てたのです。 初代教会において、 裏切り者(背教者)に与えられた平和は、ごミサの最中に私たちが交わす平和の挨拶より、もっと、もっと意味深い赦しの印でした。

    「聖霊を受けなさい」とイエスは使徒たちに息を吹きかけて言われます。 キリストのこの息は、罪の許しだけを目的とするものではありません。  使徒たちはイエスと同じ使命を受けました。 彼らは神と人類を和解させるために、「おん父がイエスを派遣されたと同様に」派遣されました。 イエスの息吹きは時代が続く限り、使徒たちに、イエスの名によって、罪人に対する憐れみを行使する権利を伝えています。 そういうわけで、この復活節の第2の主日は、「神の憐れみの日曜日」とも呼ばれています。

    イエスの息吹きは使徒たちに聖霊と信仰による識別の恵を与えました。 本当の信仰は、見るものからは生まれず、聞くことから生まれます。 信仰は受けた証しをしっかり信頼する事と明白な証拠を求めない事から成っています。 「見ないで信じる者は幸いである」とイエスは言われました。 信仰は聖霊の力によってもたらされる証を受け入れることから何時も生まれます。

    聖書の中で、トマスの口を通して、キリストは初めて直接、神と呼ばれています。 トマスは十字架に付けられた傷を手で触れて確かめるものとして見ました。 それにも関わらず、彼は目に見えない神の現存を宣言します。  トマスの「わたしの主、わたしの神よ」という信仰の叫びはネロ皇帝のとき以来、ローマ皇帝たちが「我々の主なる神、皇帝」と呼ばせたことを思い出させます。 特にキリスト教徒が迫害された理由は、神を崇拝するように皇帝たちを崇拝する事を彼らが拒否したからです。 トマスの声を通して、聖ヨハネは迫害されているキリスト者たちが、殉教者の深い傷のうちに、あるいは彼ら自身の苦しみのうちに、復活されたキリストのみ顔を見わけ、キリストが本当に彼らの直ぐ傍にいる事を発見するように招いています。

    「わたしの主、わたしの神よ。」と言う言葉は、私たち自身の信仰の叫びになるはずです。 特に私たちが神を疑う時、神がとても遠いと思われる時、また、私たちの上にあまりにも激しく苦しみが襲いかかってくる時にこそ、信仰の叫びにならなければなりません。 神の愛と私たちの傍らに神が現存されることは、私たちの心に深く根を下ろした信仰でしか、認めることが出来ません。 私たち一人ひとりに、イエスは「恐れるな。 わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。 一度は死んだが,見よ、世々限りなく生きている。」(黙示録11718節)と言う言葉を繰り返されます。

     復活の喜びが、恐れを追い払うために、私たちの心に満ち溢れますように!  イエス・キリストにおける私たちの信仰が、神と燐人に向けられる私たちの愛を大きくしてくださいますように! 最後に、私たちの信仰の証しが、皆のために永遠の救いへの源となりますように!  アーメン。


                            
                      復活節第3主日    年    2010年4月18
 
     

    使徒言行録 527324041節   黙示録 51114節   ヨハネ 21119

    魚で一杯になった網をみたヨハネは、「主だ!」と叫びます。 岸辺に立っていた不思議な人物の言葉が実現したので、ヨハネはイエスだと分かります。 それは「舟の右側に網を打ちなさい。 そうすればとれるはずだ。」という言葉です。 イエスが言われたことは、すべて実現していた事をヨハネは思い出しました。 また、漁があまり多いので、ヨハネはイエスだと分かります。 そこでヨハネは最初の不思議な漁が彼をキリストの弟子にした事を思い出しました。 また、カナの披露宴で与えられた溢れるほど多い葡萄酒と、パンと魚の二つの増加と、更に生涯に亘ってキリストが行なったすべての豊かな印を思い起しました。

    魚で一杯の網は偶然の結果ではありません。 むしろ、網を打ちなさいと言われた言葉に対する信仰の結果です。 この不思議な漁のうちに、カナの喜びと、パンの増加の時の満腹した5000人の人々の驚きとを内蔵しています。 過去の出来事を思い出すヨハネは、キリストから来る無償で溢れるほどの寛大さを再発見します。 狂喜してヨハネはペトロに「主だ! 彼以外ではありえない。」と言います。 これは自発的で率直な愛の叫びです。

     ヨハネはイエスが愛しておられた弟子であると福音には書いてあります。 愛は信仰の第一歩です。 既に見覚えている目を開くのは愛です。 そして愛こそ聖霊の賜物です。 先ず、ヨハネの識別は自分の心にあるイエスの思い出に土台を置いています。 次に、収穫のない長い夜を過ごした後、夜明けに、思いがけない奇跡がヨハネの目を開きます。 最後に、岸辺に立っている見知らぬ人は確かに復活されたキリストであると言う確信は、聖霊によってヨハネに与えられました。 私たちも、イエスの思い出が自分の心に溢れることを学ばなければならないでしょう。 試練が私たちを締め付ける時、キリストが私たちの傍らにいる印を見分けるために、イエスを愛さなければなりません。 更に、復活されたキリストの実存を、。自分のうちに受け取ることが出来るために、聖霊に祈らなければなりません。

    岸辺に戻る弟子たちは、獲った魚を持ち帰ります。 しかしイエスは既に彼らのために食事を準備していました。 エマウスの弟子たちがイエスと分かち合ったパンと食事は、イエスが本当に復活されたことをはっきりと示しました。(ルカ243031節) 湖の岸辺で分かち合うパンと魚は、イエスが何日か前、復活の夜に弟子たちと分かち合った食事を彼らに思い出させました。(ルカ244143節) 最後の晩餐の夜と同じように、イエスご自身が弟子たちにパンと魚を配ります。 それはもう一度、聖体の神秘を理解させるためです。 このパンの分かち合いは、イエスがまことに復活された印となり、そしてイエスはご自分の名によって集まる人々のうちに実際にとどまっている印となります。

    同様に、一つ一つのミサ祭儀は、キリストの名によって集まっている私たちの共同体に、私たち一人ひとりの個人的生活の内に、イエスを実際に受け入れる可能性のある恵を与えます。 また一緒に祈ることで、イエスを益々愛し、私達が外面的にではなく、互いに心から愛しあう恵を与えます。 復活の物語を通してヨハネとルカは、私たちの日常生活の中でしか、復活したイエス・キリストに出会うことはないと思い起こさせています。 確かに、不思議な事を求めたり、幻や啓示を待ち望んだりする事は、私達の内に親密に生きておられる神を見分ける事を妨げます。 私たちは神が居られる処で神を捜さなければなりません。 それは私たちの心の隠れた秘密の場所や聖体の秘跡の中です。

  イエスを見つけるために、私たちの愛全体が要求されています。 祈りとは、本当にキリストを愛したいという決意の最初の印です。  人を愛する証拠は、その人のために時間を使う心構えが出来ていることです。 祈るとは、神に時間を与えること、つまり、私たちが神に愛されるままにし、ほんの少しお返しをするために、神に時間を差し出すことです。

    もし私たちが愛をもってイエスを捜し求めるとしたら、イエスは私たちと心と心を合わせる敏感な細やかさのうちに、私たちの心の岸辺に迎えに来られるでしょう。  ア−メン。



                     復活節第4主日    C年    2010年4月25日 

   使徒言行録  13144352節、   黙示録  7917節   ヨハネ  102730

    召命の祈りの日曜日に当って、教会はイエスが良い牧者である事を私たちに示します。 牧者はただ声だけによって、動物に対する自分の力を示します。 この声の優しさは、群れの一致を作り出し、群れに信頼を与えます。 聖書の中で、牧者の特徴は伝統的に神の特徴とされています。 ヤコブは自分の子、ヨセフの子供たちを祝福する時、神が牧であることを最初にいいました。 「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。 私の生涯を今日まで、導かれた牧なる神よ。」(創4815節)とあります。  後に、羊飼いの役割がすべてのイスラエルの王に当てはめられる事になりました。 彼らは民と共に律法に従い、彼らの役割は民が神から離れないように、また神との一致を失わないようにすることでした。 この点でダビドは模範的な羊飼いの王です。 他の王たちは皆、民の利益よりも自分の利益を追求しました。 それで、預言者たちは、彼らを良い道に着かせるために、度々干渉しました。

    自分の使命について話す時、たえず昔預言者が使っていた、王であり羊飼いであるイメージを、キリストは再利用しました。 ザカリヤはキリストの使命を特によく預言しています。 「私は屠るための羊を、羊の商人の為に養った。 私は二本の杖を手にして、一つを「好意」と名づけ、もうひとつを「一致」と名付けて、羊を養った。」(ザカリヤ117節)と。 イエスが良い牧者だとはっきり言う時、自分が良い王であるだけでなく、その上、救い主であると宣言します。 彼の役割は、神との一致を与えるために、散らされている者を捜し求める事です。 この神との一致は、永遠の命の保証です。

    「私の羊は私の声を聞き分ける。 私は彼らを知っており、彼らは私に従う。 私は彼らに永遠の命を与える。 彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪う事はできない。」(ヨハネ1027,28節)とイエスは言われました。 この言葉を聴く人は、エゼキエルの預言の言葉を考えずにはいられません。 この預言に従えば、イスラエルの王たちの挫折の後、神はご自身で、個人的に民の本当の羊飼いであると約束されます。 これらのすべての悪い羊飼いは、の民を散らし、ニネベとバビロンの長い追放と言う事を引き起こしました。

    イエスはご自分の父が民を自分に委ねられたとはっきり言われます。 羊の群れは彼に与えられました。 彼は飼い主ではありませんが、御父である神の羊の群れの羊飼いです。 イエスは、神が自分の使命の唯一の源であると肯定されます。 だから、彼は自分の命を、自分に委ねられた羊たちに与えます。 結局、イエスは「父と私は一つである」(ヨハネ1030節)と言う死の宣告を挑発するようになるものを、権威をもって明言されます。 黙示録の中でヨハネは、いけにえとしてほふられた子羊であるキリストの血が、一致と永遠の命の源である事を思い出させます。 「玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉に導く。」(黙示録717節)と。

    故に本当の羊飼いは、神に対する従順によって、一匹に子羊であり、しかも、いけにえとなった子羊です。 良い牧者であるイエスは、私たち一人ずつをその名前で呼ばれます。 その声にどうして敏感にならずにいられるでしょうか? その声は私たちに御父について語り、私たちに対するあまりにも大きな愛について語っているのに・・・ 私たちイエスの声を直感的に認識できなければなりません。 この声は牧者の権威と子羊の優しさをもって私たちに指図します。 ですからイエスが私たちに言われる事を聞きましょう。 彼がどれほど私たちをよく知り、私たちを多く愛しておられるか・・・・・・・ 召命のために祈る今日、「父の方へ来なさい」とささやくイエスの声を私たちの心の底から聞き分けましょう。 アーメン。 
(『父の方へ来なさい』と言うささやきの生きる水が私の内に流れる」アンチオキヤの聖イグナチオ参照) 

              

                       復活節第5主日   C年    20105月2日 

   使徒言行録 142127節   黙示録 2115節   ヨハネ133135

    捕らえられ、拷問を受け、十字架につけられ、そのみ顔が苦悩にゆがむ時、イエスは「今や人の子は栄光を受ける」と言われます。 しかし、私たちは反対の事を考えます! 私たちにとって、栄光とは名声を博し、成功し、人気がある事を示しています。 聖書にとって、栄光とは人の本当の価値で、その重要性、現存についての密度の高さ、権威力を示しています。 価値と重みについてのこの考えに表現できない光り輝く美しさと言う考えが加わります。 このように「神の栄光」は、「神ご自身が目のくらむような光のうちにご自身が誰であるか、何をするかを啓示する」と言うことを現しています。

    こういう意味で、栄光は神ご自身のみのものであり、また神が与えたいと望まれる人のものになります。 この点で神のご計画を実現する人は、重要性と価値を取得し、神の栄光に与ります。 イエスは神がご自分に期待される事すべてを実現されたので、弟子たちはキリストの御顔の上に神の栄光を見ました。 最後の晩餐の時にイエスが4回「栄光」と言う言葉を繰り返して言われたのは、どれほど神の愛が、ご自分の人間としての心を満たしているかを表わすためでした。 イエスの愛は、ユダの裏切り、弟子たちの逃亡、ペトロの否認そして受難のあらゆる憎しみと暴力に打ち勝ちました。

    イエスはご自分の命を愛のうちに捧げることは、勝利であると考えられました。 屈辱を加える道具である十字架は、キリストが栄光に挙げられることの印、私たちに対する神の愛の印となります。 「私は地上から上げられる時、すべての人を自分の許へ引き寄せよう。」(ヨハネ1232節)と。 この意味でイエスは、栄光を受けられ、イエスにおいて御父もまた栄光を受けられます。 イエスはご自分の死によって、私たちに対する御父の限りない愛を明らかにされます。 こういうわけで、栄光について話された後に、イエスは自分が私たちを愛したように、私たちも愛するようにという新しい掟を私たちに与えられます。

    私たちは中傷、不正、無理解に直面した時、簡単に忍耐と愛を失います。 同じ状況に置かれたイエスは、反対に、むしろご自分の愛をもっと強く示されます。 イエスは私たちに、時にはへりくだり、人から理解されない状態を愛によって受け入れるように求めます。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子である事を、皆が知るようになる。」(ヨハネ1335節) 試練の中で示す愛は、必ず栄光の道になります。

    使徒言行録は、初代キリスト教共同体が試練や批判や迫害を免れる事ができなかった事を私たちに示しています。 パウロとバルナバはキリスト者が信仰のうちに粘り強く生きるように勇気付け、また勧めています。 彼等は「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」(使徒言行録1422節)と言っています。 信仰は、試練の真っ只中で、隣人への愛の神秘を、イエスのように生きる使命を信徒に与えます。

    黙示録は神と人間の間の葛藤の終わりを告げています。 しかし人々の間の他の葛藤もあります。 そういう訳で、愛はイエスの唯一つの指示として残されています。 愛は人間同士の葛藤を終わらせます。 私たちに指図された愛は、過去と未来に関係します。 過去、それは神が愛として示されたキリストの受難です。 未来、それは人間が人間同士で平和に過ごす場所です。 これこそ、黙示録で語られる「聖なる町」即ち「新しいエルサレム」です。 人間にとって、叫ぶ事もなく、苦しみもなく、悲しみもない町、そして同時に、神の住まれる町です。(黙示録213,4節参照) 愛の掟を実現する事で、私たちは既に自分たちの未来を生きています。 愛は死よりも強いです。 キリストの復活は無視できない一つの証拠です。 イエスに従って、この人生の試練を全て通り抜けて、真理のうちに愛しましょう。 この道の先で、神が私たちに与えて下さるものは栄光です。 アーメン。



                     復活節第6主日   C年   201059

   使徒言行録 15122229節  黙示録 2110142223節  ヨハネ 142329

     40日間に亘って弟子たちは栄光の体を持つイエスを見ていました。 このおかげで、弟子たちは3年間、よく聞きましたが、しばしば理解できなかったイエスの言葉の意味を見出しました。 キリストの復活は、彼らのうちに暗記力の復活を呼び起こしました。 復活されたキリストとの様々な出会いは、不在であるが存在すると言う神秘に、弟子たちをゆっくりとではあるが導いていきます。 イエスのご昇天の後、弟子たちは一度も孤独を感じることはなく、かえって、それぞれ一人ひとりが、深い親密さの中で、自分の心に語りかけるイエスの神秘的現存を感じ、認めました。 「私を愛する人がいれば、私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ1423節)とヨハネは書いています。 見えない人、更にいない人の現存を感じる体験は、愛する人だけにしか与えられません。

    弟子たちはイエスを愛するからこそ、イエスがいないにも拘らず、彼の現存の神秘を、新しいやり方で見分けました。 イエスのこの現存はキリストが私たちに与えられた聖霊に良く似ています。 イエスの言葉の黙想は彼が現存している事に私たちを向ける鍵の一つです。 何故なら、世の始めから神のみ言葉は神の現存の秘跡だからです。 このことから、どうしてマリアが自分の心のうちで、神の御言葉を絶えず思い巡らしていたかが分かります。 彼女の、神である父と子と聖霊との親密な一致は、神のみ言葉に対する愛に満ちた聞き方から生まれました。 「私を愛する人は、私の言葉を守る」(ヨハネ1423節)と言われています。 私たちがキリストについて知っているすべてのことが、私たちの信仰と祈りを養わないなら、私たちの日常生活が、神によって完全に潤される事は絶対にないでしょう。

    イエスは言葉と行いによって、ご自分のうちにおられる父の現存を表しました。 同様に私たちもイエスへの愛と彼の言葉に対する忠実さによって、私たちのうちにあるイエスの現存を表すことができます。 何と言う尊さと責任でしょう!  既に「私を愛する人がいれば、私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」と申しましたが、これこそ神との親密な関係の鍵です。 ある日、シモン・ペトロが言いました。 「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ668節)と。 神のうちに生き、神が私たちのうちに生きられるためには、注意深く神のみ言葉を聴くこと、習慣的にキリストの体を拝領しない事が、必要不可欠なことです。

    毎日曜日、教会に集まるのは、キリストを愛するため、またキリストに対して忠実であるためです。 神のみ言葉が私たちの人生の光である事を信じますから、み言葉を聞くため、またそれを黙想するために共同体として集まります。 神が何を私たちに言われたかを理解し、それを実現し、自分の周囲の人達に宣言するために集まった共同体は聖霊の力を受けます。 聖霊は私たちが心のうちに納めて、守ったことを照らす内面的な光です。 「聖霊が、私が話した事をことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ1426節)とイエスは約束されます。 故に神の言葉を受けるたびに、聖霊に祈る習慣を身につけましょう。

    最後に「あなたがたに言っておきたいことはまだ沢山ある」(ヨハネ1612節)とイエスは付け加えました。 私たちはいったいキリストが言いたい事を本当に知りたいでしょうか? そのためには、本当に自分のうちにキリストが現存され続ける必要があります。 教会の秘跡はこの目的のために必要不可欠なものです。 教会の秘跡は私たち自身の記憶を神の記憶と組み合わせるために大きな助けとなります。 聖霊の助けのおかげで、私達は御父の御子との一致の関係を理解し、実際に生きることが出来ます。 その上自分達のうちに御父の現存を守るなら、聖霊は私たち互いを瞬く間に一致させてくださるでしょう。 こういう理由で、イエスはご自分の平和を私たちに与えられます。 「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ1427節) 主、イエス・キリストの恵、神の愛、聖霊の交わりがいつも皆さんと共に!   アーメン。



                    主の昇天の祭日     C年    2010516

   使徒言行録 1111節  エフェソの信徒への手紙 11723節  ルカ 244653

    今日、栄光の内に挙げられたキリストは、新しいあり方、つまり新しい状態に向かって置かれました。 私たちの目からキリストを隠す天空は神ご自身です。  ところで、神の住まれる場所はここだと言うふうには決定できません。  神は私達の頭上ではなく、むしろ私たちの心の奥深くに住んでおられます。  もし、万一私たちがその場所を神に与えるとしたら・・・です。

     「イエスが天に挙げられた」と述べたルカは、復活に関係のない出来事を語るのではなく、むしろキリストの復活の神秘の特別な局面を言い表しています。  勿論、第一の朗読と今日の福音を通してルカは、弟子たちに現れたキリストの最後の出現を私たちに述べています。  しかし、ルカの目的は私たちの目がなかなか見ることの出来ない神秘を理解させるためです。  即ち、キリストの栄光化、ご自分の右に座らせる御父によるキリストの戴冠のことでもあります。  しかしながら、イエスのこの栄光の状態は、確かに主のご復活の瞬間に完全に与えられています。  「宇宙万物の王」としてご自分の父によって戴冠されたイエスはこの時から後、ご自分の復活させられた人間としての体で、全宇宙に満ちる父の普遍的現存に参加します。 また全世紀を通して、永遠に父なる神の無限の至上権にも参加します。


     主の昇天の二つの話によって、ルカは簡単に、イエスが彼の父である神と一致している事、またイエスは宇宙万物を治める方、つまり目に見える人間世界、目に見えない天使の世界の王である事を、私たちに教えます。 (エフェソの信徒への手紙49節参照)  イエスが復活された人間の体で、神の栄光に与っているから、私たちが神に感謝するようにルカは招きます。  イエスは私たちに聖霊の助けを約束します。  それは、私たちもまた何時か、私たちと人間性を分かち合われたキリストの神性に完全に参加するためです。

    天は場所ではなく、私たちにとって、主イエスご自身です。  そのために、「私たちが自分に生きるのではなく、私たちのために死んで復活されたキリストに生きるために、神は信じるものに、最初の賜物として、聖霊を遣わし、聖霊は世にあってその業を全うし、全てを尊いものになさいます。」(第4奉献文参照)  天の喜びは地上の喜びとなるべきです。  「御国が来ますように。  み心が天に行なわれるように、地にも行なわれますように!」と祈るたびごとに神に私たちが願っているのはこのことだからです。

    今日、私たちは栄光と壮麗さに輝くイエスを祝います。  私たちが復活する時の栄光の内における私たち自身の上昇も前もって祝いましょう。  教会は頭であるキリストを天に置いていますが、足である私たちは地上にいます。  そこで聖霊は私たちの肉と人間としてもっているもの全部を使って、教会の栄光の状態を作ります。  イエスのご昇天は私たちに無限の希望の喜びを与えます。

    イエスの「天への出発」は弟子たちの宣教への出発と同時に起こります。  「あなた方は地の果てに至るまで私の証人となる。」と使徒言行録に述べられています。  マタイの証言によれば、「世の終わりまで何時もあなた方と共にいる」(マタイ2820節)とイエスは言われました。  ですからイエスの普遍的で永遠の現存を世界に持って行きましょう。  私たちの心の奥底におられるイエスは、その名において私たちが出会う人々全てに聖霊の働きを広めたいのです。  ご自分の昇天の日のように、イエスは絶えず両腕を挙げて、私たちを祝福します。  イエスは確かに私たちが聖パウロと共に次のように宣言できるように、ご自分の力を下さいます。  「私にとって、生きるとはキリストです!」(フィリピの信徒への手紙121節)また「生きているのは、もはや私ではありません。 キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙 220節)と。  アーメン。



                   聖霊降臨の祭日   C年    2010523

   使徒言行録 2111節  ローマの信徒への手紙 8817節  ヨハネ 1415162326

    使徒たちは、キリストが約束された聖霊を2回受けました。 先ず、復活の夜、非公式に受け、「弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ2022節)と弟子たちの反応が非常に簡単に述べられています。  50日後、今度はおおやけに同じ聖霊を受けます。 しかし、彼らが抱いている、溢れるばかりの喜びのせいで、ある人々は彼らが酔っていると思い込みました。(使徒言行録212節)  聖霊が与える喜びは真実であり、終わりのないものです。  イエスが 「あなた方は心から喜ぶことになる。 その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」(ヨハネ1622節)と予告しました。

    聖霊に満たされた弟子たちは、神ご自身の言語を話すようになり、それを聞く人は、言われた事を自分たちの母語で理解します。  イエスの弟子になった私たち、つまり彼の証人となった私達が同じ聖霊を受けるようになったのは、この世の言葉以外の言語を話すためです。 この世の言葉がほんの少しの真理のうちに、偽り、スキャンダル、憎しみ、口論、支配欲、軽蔑、わいせつ、嫉妬と不正をもたらします。  かえって私たちの言語は聖霊の実りをもたらす神ご自身の言語でなければなりません。 この実りは、優しさ、平和、慈しみ、忍耐、許し、信頼、謙遜、愛、貞潔と自制心です。

    聖霊降臨は教会の誕生と同時に新しい創造の告げです。  復活されたキリストによって与えられた聖霊の火は、この時から新しい世界を生み出します。 「弁護者、即ち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全ての事を教え、私が話した事をことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ1420節) 聖霊はキリストの教えになにも加えませんが、私たちに神の言語に対する理解を与えます。 この時以来、神の言語は人間の言葉で理解され、繰り返し使うことが出来るのです。  信じる人が、キリストの神秘と父と子と聖霊と自分達との間にある関係を理解し、宣言するために、聖霊は彼らの知恵、暗記力、心を大きく開きます。

    私たちが世間の知恵に落ち込まないように、またこの世の言葉の共犯者にならないように、聖霊は私たちの弁護者です。 私たちはどうしても神の言葉を語るべきです。  聖パウロはイエスの弟子たちの役割を 「自分たちは罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(ロ−マ611節)と見事に言い表しました。 私たちの日本の賛美歌がこの言葉の意味をもっとはっきり示しています。 「キリストのように考え、話し、行い、愛そう・・・もはやこの身に生きることなく、キリストによって生きるために・・・」(典礼聖歌390参照)  これを実現するために、私たちには聖霊の力と保護はどうしても必要です。

    聖霊によって満たされていない肉体はとても弱いという事を私たちはよく知っています。 「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。 心は燃えても、肉体は弱い。」とイエスは私たち一人ひとりに願っています。 確かに定期的に聖霊に祈ることは必要不可欠です。  残念ですが、ある信者は聖霊降臨の日だけに聖霊の助けを願って祈り、他の信者は1年中全く何もしません。

    私たちの愛、希望、信仰を強めるために、今日の福音の宣言に先立って聖霊の賛美歌を使って度々祈る必要があります。 勿論、教会が提供する、他のもっと短い聖霊の讃美歌を使うことも出来ます。 神の言葉を聴くため、また理解するため、更にそれを繰り返すために、絶えず聖霊の保護と力を願う事が大切です。 「聖霊来てください。 あなたの愛の火を信じる人の心に燃え上がらせてください」(Veni Creator Spiritus参照) 聖霊が私たちを神の子とする、この霊によって私たちは神にむかって、「アバ、父よ」と呼ぶのです(ロ−マ815節)  この結果、私たちはあっという間に、神の国に入ります。  アーメン



                   三位一体の祭日     C年     2010530

   箴言 82231節   ロ−マの信徒への手紙 515節   ヨハネ 161215

    「三位一体の神秘」という言葉は、「三位一体が理解できない」ということを意味しているのではなく、神ご自身について啓示されたいくらかの事を表わしています。 聖書には、「三位一体の三つの人格」という表現はありません。 聖書では、ただ、「父と子と聖霊」とだけ言っています。 聖書で啓示されていない事のすべては、神の神秘から生じています。 だからまさに聖霊の働きがこの神秘に私たちが入り、与るようにさせます。

    今日使われている言葉で神の実在を定義するために、何回もの公会議や4世紀間の時間が使われました。 ところが、「三位一体とは何ですか?」とある人が尋ねた7歳の子供は直ぐに答えました。 「簡単ですよ。 一人じゃ愛する事ができないということです」と。  真理は何時も子供の口を通して語られます。 神は昔からそして何時も、ご自分の神秘を全く小さい者に啓示し、知恵のある人や賢い者には隠されます。(ルカ1021節参照)

   神は神秘です。 それは、だから人は神を知らないという事ではなく、人は神を知り尽くす事はないという事です。 この言い回しの微妙さは重大です!  私たちが神や神のみ言葉と親しくなればなるほど、それは教会の秘跡についても同様のことが言えますが、神の神秘についての光を浴びるようになります。 「あなた方に言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない」とイエスは言われました。 なぜなら神は神秘であって、この点について私たちに忍耐を学ばせられます。 聖パウロはロ−マの信徒への手紙の中で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」と書きましたし、また「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。」と感嘆しながら付け加えています。

    神は愛の神秘であって、神によって創られたすべての人はこの神秘に参加しています。 生きる愛である神だけが、愛する事がどういうことかを私たちに教えることができるのです。 「愛するとはすべてを与えること、そして更に自分自身を差し出すことです。」と幼いイエスの聖テレジアは書いています。 御父は愛ゆえに私たちにすべてを与えられ、また私たちにたいする御父の愛は永遠です。 御子は私たちに命を与えられました。 それは私たちを御父の近くに置くためです。 「私を通らなければ、誰も父のもとに行く事ができない。」(ヨハネ146節) 聖霊は私たちを御父と御子との一致の中に入れます。 聖霊は神に「アッバ、父よ」(ガラテヤの信徒への手紙46節)と、イエスに「あなたは主です」と言うことを私たちに教えました。 聖霊は私たちを御父の方へ向け、同時にいつも私たちをイエスに戻らせます。 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Tコリント123節)と。

    愛するとは、自分の利益を求める事ではなく、むしろ他の人が誰であろうと、高められ、知られ、愛されていることを望むことです。  私たちの愛し方はそれに似ているでしょうか?  本当に私たちは他の人のためにその人を愛しているでしょうか? それとも、私たちに有効なものを引き出しているでしょうか?  この三位一体の偉大な神秘を前にして、父と子と聖霊でありながら同時に唯一の神であるこの神秘を前にして、沈黙のうちに礼拝する事しかできません。

    キリストは絶対に忘れるべきでない秘密を私たちに打ち明けました。 「父ご自身があなた方を愛しておられるのである。」(ヨハネ
1627節)と述べられます。  この打ち明け話は、私たちの平和を保証し、私たちにすべてを耐え忍ぶ力を与えます。 愛は神の救いのご計画の最初の言葉であり、最後の言葉でもあります。 「神は限りなく世を愛され、ご自分の独り子を与えられた」と。 従って、三位一体の中での私たちの場所は御父の近くです。 御独り子イエスと共に、私たちは自分が本当に神の子だと感じなければなりません。 私たちはまた、聖霊と一致しているように学ばなければなりません。 というのは、神と私たちとの親子関係の一致を保証するのは聖霊であり、私たちの周りの人達を愛する兄弟姉妹として受け止めるのを学ばせるのも聖霊です。 アーメン。



             キリストの聖体の祭日     C年     201066

   創世記 141820節  Tコリントの信徒への手紙 112326節   ルカ 91117

    設立した秘跡によって、ご自分の血だけが呼び起こされる事をイエスは望まれます。 そのために、ご自分が捕らえられる時に、弟子たちの血も流されないようにと、イエスは気を配ります。 また、私たちのあがないの神秘を表すために、過ぎ越しの子羊ではなく、パンとぶどう酒をイエスは選びます。 十字架上のご自分の血まみれの生贄を、血まみれでない秘跡によってイエスは逆説的に示します。

    パンとぶどう酒は自然の意味を持っているから、イエスはこれを選びます。 パンとぶどう酒は人間の為にだけとって置かれた食料です。 またパンとぶどう酒は自然の中では見つかりません。 麦の種とぶどうの実を集め、それを加工してパンとぶどう酒にしなければなりません。 この事を知るのは大切です。 なぜなら、イエスは生涯、何も創造されず、むしろ、人間の苦労の結果を何時も利用されました。 例えば、カナにおいては、召使たちが汲んできた水をぶどう酒に変えられました。 洗って綺麗にしたばかりのペトロの網が、魚で一杯になりました。 またイエスに差し出された5つのパンと2匹の魚で数え切れない人たちを満腹させました。 確かにイエスは創造しませんが、増加させました。

    このようにパンとぶどう酒を選ぶ事で、イエスは人々の仕事の価値を増大しました。 しかしイエスは先ず、彼ご自身が私たちにとって「命のパン」であることを分からせようと望まれました。 私たち自身の手で聖体をいただくことで、パンとしてではなく、キリストの体を食べるように私たちは招かれているのです。 また、司祭が高く挙げてみせる杯は、ぶどう酒ではなくキリストの血を入れています。 キリストの体を頂くことで、イエスが私たちの内でご自分の救済の業を完成されることが可能になります。 この聖体拝領の時こそ、最も意味深い時です。

    実際、聖体拝領は、一つの信仰宣言です。 「キリストの御体」と言う司祭に対して、聖体をいただく私たちは「アーメン」と答えます。 つまり、「はい、信じます」と言います。 この時こそ、私たちはキリストと一致しなければなりません。 それはキリストとともに、一つの体、一つの心、一つの霊となるためです。 コリントの信徒への手紙の中で、聖パウロは聖体を拝領する前に、よく考えるように、またその結果をすべて受け取ることを考えるように教えています。 「誰でも自分でよく確かめた上で、そのパンを食べるべきです・・・主の体をわきまえずに食べる者は、自分自身に対する裁きを飲み込むのです。」(Tコリント112829節)と言っています。

    聖櫃の上方にある赤い小さい明かりは、イエスが本当に私たちの間に現存される事を語っています。 イエスは聖櫃の扉の後ろに隠れているのではありません。 彼は祭壇の上に聖体が顕示される時と同じやり方で、そこにいられます。 イエスは何かの背後にではなく、私たちの目の前におられます。 イエスを見る者はまた御父を見るのです。 イエスは宝石箱の中にある宝石のように、聖体の中におられるのではありません。 パンの外観のもとに隠れているのでもありません。 聖体を見るものはイエスを見ます。 彼は私たちの手の中に、実際に現存しておられます。 彼は私たちにご自分を示される神です。

    ですから、聖体の意義は非常にはっきりしています。 イエスはあがない主としての愛の全権力をもって、私たちと関わりのある立場におられます。 イエスは死から救う生きるパンで、私たちに永遠の命、つまりイエスご自身の命を与えられます。 キリストの体を食べることで、私たちはイエスが私たちの命のパンであり、神のパンであることを証明します。 食欲が出る為に食べるものを見る必要があるなら、拝領する前に、聖体をしっかりと見つめることが必要です。 神への飢えを育てるのは大切です。 なぜなら、イエスは「私は天から降って来た生きたパンである。 このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」(ヨハネ651節)と言われました。  アーメン。


                                                       
                                                        
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